私は信楽町長野大窯町で生まれ育ちました。
子どもの頃から窯場が遊び場でした。
一方、ENTOTSUのある神山は、私の生まれ育った場所ではありません。
妻・睦美の実家がある場所です。
ここには、妻の祖父と父が営んでいた製陶所がありました。
煙突が残り、工場の建物が残り、人が働いていた記憶が残る場所です。
実は私は以前から、この場所のことが気になっていました。
妻の父と母が二人暮らしになり、この建物や土地をどうしていくのか考えなければならない。
そんな思いが心のどこかにありました。
当時、私たち夫婦は今とは別の場所で睦庵を営んでいました。
店を続けていく中で、ふと思うことがありました。
「妻の実家の方が、建物としてもロケーションとしても魅力があるのではないか。」
実際に足を運ぶたびに、その思いは強くなっていきました。
煙突のある風景。
製陶所の建物。
山の稜線。
そして、この場所に流れる静かな時間。
いつしか夫婦で、「いつか睦庵をここへ移せないだろうか」と話すようになりました。
今振り返れば、ENTOTSUの始まりは地域活性化でも地域づくりでもなく、ごく個人的な家族の事情だったのだと思います。
市議会議員として12年間活動する中で、人口減少や空き家、地域産業の衰退など、さまざまな地域課題と向き合う機会がありました。
また、公民連携の取り組みを学び、全国各地の先進事例を見る機会にも恵まれました。
昨年参加した都市経営プロフェッショナルスクールでは、岩手県紫波町のオガールをはじめ、多くの地域再生の現場を訪ねました。
どの事例も素晴らしいものでした。
けれど、私の心に残ったのはそこに流れる日常でした。
学校帰りの高校生。
買い物帰りのお母さん。
散歩をするお年寄り。
誰かの特別な場所ではなく、地域の人たちが自然に集まり、時間を過ごしている風景でした。
人が惹かれる場所には、その土地らしい時間が流れています。
神山の製陶所を見ながら、私はそんなことを考えるようになりました。
妻の祖父と父が働いた場所。
家族が長い年月を過ごした場所。
煙突や建物が残っているのは、その時間の積み重ねがあったからです。
全国の事例を見て回ったからこそ、逆に足元の価値が見えるようになったのかもしれません。
ENTOTSUは、大きな開発事業ではありません。
半径200メートルほどの小さな取り組みです。
けれど、この場所に刻まれてきた時間の続きを、私たちなりの形でつくっていきたいと思っています。
遠くに答えを探していたようで、本当に向き合うべき場所は、ずっと身近なところにありました。
それが、神山だったのです。

